厚沢部に住み込んで6年半、真正面から地域に向き合ってきた
吉木美也子(北海道檜山郡厚沢部町の地域プロデューサー、59歳)
Q:厚沢部に赴任してから、6年半が経過しました。どのような仕事をされてきましたか。
吉木: 2009年~2013年は、厚沢部町の過疎化、高齢化の課題解決に向けて調査し、私自身が移住者として移住促進事業に努めました(ちょっと暮らし体験住宅利用者の対応や、移住フェア等の交流事業など)。
さらに過疎化対策としては雇用の場を創出することが必要であり、高齢者向け住宅の整備による就労の場づくりに取り組みました。高齢化に対しては、在宅でも安心して暮らせる仕組みづくりが必要です。特養待機者、退院後に自宅で暮らせない方、介護度はついていないが虚弱な方々の受け皿づくりとして、ゆいま~る厚沢部の建設につながる活動をしました。地元の方々に、既存の特別養護老人ホームと競合するのではなく、選択肢を増やしましょうという説得に汗をかきました。
独居及び高齢者のみの世帯約150戸を戸別訪問したり、町民向け意見交換会(ワークショップ)を13回開きました。こうした動きでニーズを調査し、困っていること、入居費用や配食サービスのニーズ、その料金や医療体制などへの声を集めました。そうした声を聞きながら、林野庁木材補助事業から1億円、厚沢部町運営補助金1億円を受けて、入居費用に当てることができました。その結果ゆいま~る厚沢部では、通常のコスト計算では6万円になる家賃を2万円に下げることができました。
このゆいま~る厚沢部の初代ハウス長を2年務めた後、2015年春からは再び厚沢部の地域プロデューサーとなりました。今度は昨今の地方創生の流れにのって、病院の再生等も含めた地域包括ケアシステムの構築や、コンパクトシティの事業化へ向けて、町と二人三脚で進めています。
Q:きつい出来事もあったと思いますが・・・。
吉木: ゆいま~る厚沢部開設の前年である2012年9月の町議会で、1億円の補助金が否決されたときは、つらい思いをしました。8月には地鎮祭も済み、工事が始まっていました。地域の理解者と協力しながら、関係者の説得に走り回りました。ゆいま~るを建築・運営するコミュニティネットの利益になる補助金ではなく、これで家賃を下げて町民が安く入居できるようにするためのものであることを粘り強く説いて歩きました。厚沢部町のまちづくりを成功させたいという思いだけで頑張りました。建設工事は約1週間止まり、完全再開には1カ月程度かかってしまいましたが、施工会社の大変な協力があって計画通り開設にこぎつけました。
Q:これから地域プロデューサーを目指す方たちにメッセージをお願いします。
吉木: まずはプライドを捨てて、先輩の見習いができること、その物言いまで真似をして、そこから自分流にするような姿勢が必要でしょう。
私は、「自分が住み続けるとしたら・・・」といつも考えて行動しています。相手の立場に立って、謙虚さと強引さを併せ持ちながら、諦めないことが重要です。できないことは助けてもらう。ただし、できない、わからないことはやってみてから言うべきです。安易におもねって行政からの信頼を得ようとすると失敗します。やるべきと信じるものを正面からぶつける姿勢が必要です。さらに、目的を共有できパートナーシップを組める行政の職員がいればラッキーですね。住民票を移し、その町の文化や土壌を体感することの積み重ねで、自分のまちになっていきます。
吉木美也子
2008年5月から一般社団法人コミュニティネットワーク協会で勤務し、「ゆいま~る那須」建設に先立つ那須プロジェクトに参加。2008年10月からは(株)コミュニティネットに転籍し、有料老人ホームの再生事業やゆいま~る運営業務に従事した。
2009年10月に厚沢部のプロジェクトが発足し、いったんコミュニティネットを退社して厚沢部町に住み込み、厚沢部町100%出資のまちづくり会社「素敵な過疎づくり株式会社」に入社し、同町の過疎化、高齢化の課題解決に取り組んだ。この流れで2013年5月には「ゆいま~る厚沢部」を開設した。2013年3月にコミュニティネットに再入社し、ゆいま~る厚沢部の初代ハウス長を務めた。開設時には平均2.7だった入居者の要介護度が、2016年1月時点では平均1.5に下がるなど、ゆいま~るの“介護力”を発揮した。
そして2015年4月にハウス長を後進に譲り、ゆいま~る厚沢部の運営統括 兼 地域プロデューサー(厚沢部担当)として、再び地方自治体と協力しながらまちづくりに取り組んでいる。
コミュニティネットに関わる前は、生協や東京都議会政務調査会などで消費者活動に関わり、さらにヘルパー2級を取得して介護の現場を3年間経験した。その頃、一般社団法人コミュニティネットワーク協会の初代会長でもある神代尚芳医師の著書『自分らしく死にたい―――人生の完成を援助する医師の記録』に出会い、これをきっかけとしてコミュニティネットワーク協会に入職した。